そういえば詩漫画ってジャンルはないよね

と思った。

以下の漫画を読んで思った。

 

トーチweb とうめい 【特別読切 とうめい】
https://to-ti.in/story/toumei1

 

日常の光景から空想を広げて自分の問題意識に繋げていくというショート漫画。

感想に「思想が強い」なんて腐したコメントがあったが、自分はこれは詩を漫画で表現したんだなって思った。

 

今の多用化した漫画界では、ストーリー漫画の他に、取材した事実を漫画にするドキュメンタリー漫画、自分ごとを書くエッセイ漫画など、いろいろあるけど、詩の漫画はないよな、と思った。

 

詩は漫画にできないだろうって声が聞こえてきそうだが、詩の映像化作品は今でも作られてるのだから漫画にもできるだろう。

 

AIに「詩の漫画はある?」と聞いたら「萩尾望都の『風と木の詩』があります」って返されたけど、あれは詩的表現があるストーリー漫画だろうと。

 

詩漫画という未開のジャンル、雑誌全盛期の商業出版では成立しなかったかもしれないが、ネット漫画時代では、流行っていく可能性がある?

『みいちゃんと山田さん』の韓国読者のレビューが良い

『みいちゃんと山田さん』。
この漫画、韓国でも話題らしく、ナムウィキ(韓国版Wikipedia)でも詳細に評価が分析されている(ナムウィキでは言葉の意味や歴史の記載だけでなく、別に「評価」のページも作られ、肯定的意見・否定的意見・中立的意見が引用され評価がまとめられる)。この漫画の「評価」のページから、現在の編集バージョンでの「総評」部分をAIで日本語翻訳してみた。(wikiなので後で書き換えられる可能性はある)

 
みい山田/評価 - ナムウィキ
https://namu.wiki/w/%EB%AF%B8%EC%9D%B4%EC%99%80%20%EC%95%BC%EB%A7%88%EB%8B%A4/%ED%8F%89%EA%B0%80#toc

 本作品は、作者のインタビューで明かされたように、障害福祉を直接的に啓発するための作品ではない。作者はみいと山田のように性格や価値観が極端に異なる人物たちをキャバクラという空間に配置して悲劇的なドラマを構成し、支援学校の教員や性産業女性支援団体(原文は「風俗テラス」)などへの取材を通じてリアリティを構築したと説明した。
 
 しかし、作品の目的が障害福祉の啓発ではなかったという事実は、発達障害、社会化の失敗、性的搾取、福祉の死角地帯、障害者家族が抱える烙印(スティグマ)や羞恥心など、現実の繊細な問題を直接的な題材として使用したことに伴う責任まで免除するものではない。特にみいが社会から孤立し破滅していく過程は、障害に対する無知と偏見、保護と教育の不在、福祉への接続失敗、日本の性産業における搾取構造と緊密に結びついており、意図とは無関係に社会派ドラマや社会告発物として読まざるを得ない。
 
 問題は、本作がこのような題材を当事者への尊重や十分な構造的文脈に基づいて扱うのではなく、現実的な事例や取材内容を作品にそれらしい外皮(上辺)を被せるために利用したという点である。発達障害の特性に対する再現のエラーや誇張、障害とトラウマ・虐待・教育の失敗・保護の不在の混同、人物の行動変化に対する説明不足、長期連載化以降に繰り返された刺激的で極端な事件は、みいを理解の対象ではなく、奇行や暴力性によって周囲の人々を破滅に陥れる危険な障害者のように見せてしまった。
 
 こうした問題は、単なる調査不足やストーリー構成の失敗としてのみ解釈することも難しくなった。あずきねねの過去の作品や公開された言動から、他者の欠乏や脆弱層の不幸を話題性や商業性のための素材として消費し、本作の主人公であるみいを現実の気に入らない人物を揶揄する表現のように使用した態度が確認されたためである。これに伴い、作品に社会的弱者に対する真摯さや尊重があったとする従来の善意的な解釈は説得力を失い、一部の現実的な描写や取材も、社会問題を深く考察するための基盤というよりは、読者の関心を引くためのリアルな包装紙として再評価されている。
 
 特に物語の結論であるみいの最期は、作品全体の問題を集約している。みいは薬物に酔った状態で高橋夫婦の子供たちに暴行を加えた後、その保護者や知人たちから集団リンチを受けて瀕死の状態に陥る。しかし高橋グループはあくまでリンチ事件の加害者として描かれるのみで、みいを直接殺害した犯人として確定してはいない。現在公開されている展開上、みいの命を最終的に絶った人物はむうの母親であると強く推定されるが、確定ではないため今後の展開(8月2日掲載分)を通じて確認する必要がある。
 
 問題は、高橋グループが過去にみいを性的に虐待しガスライティングした加害者であったという因果関係よりも、みいが彼らの子供たちを暴行し、それに対する報復を受けるシーンの方がより強調して見せつけられている点である。そこに加えて最終的な殺害犯までもが、みいのせいでむうが買春や窃盗に関与させられ懲役刑まで宣告されたことを知ってみいを憎んでいたむうの母親と推定されることで、みいの死は社会的放置と継続的な搾取がもたらした構造的悲劇というより、周囲の人々に繰り返し被害を与えた障害者がついにその代償を払った事件のように受け取られる余地が大きくなった。その結果、みいの最期は同情と理解を引き出す悲劇というより、問題の多い障害者に対する一種の「私刑(勧善懲悪的制裁)」のように読まれる危険を生み出した。
 
 これは作品がみいの不幸を単に悲劇として消費するレベルを超え、最後までみいを同情と理解の対象というより、嫌悪感と恐怖感を誘発する見世物として展示したことを示している。脆弱な障害者がどのような支援や介入の不在によって破滅したのかを考察するのではなく、その人物の奇妙な行動と周囲の人物が受けた被害を前面に出すことで、一部の読者が障害者に対する既存の偏見や嫌悪を正当化するように作ってしまった。
 
 結果として本作は、社会的弱者の孤立と搾取を扱った悲劇ドラマが物語的な限界によって失敗した作品というよりは、現実の障害・貧困・性的搾取問題を社会派ドラマの外皮として利用しながら、脆弱層の不幸や問題行動を刺激的な見せ物として消費した作品に近い。したがって「貧困ポルノ(不幸ポルノ)」という表現すら作品の問題を十分に説明できておらず、社会告発物の皮をかぶった発達障害者のフリークショーであり、障害者嫌悪を煽る商業的な破綻劇に帰着したという強い批判を受けている。
 
 このためアニメ化発表の際にも日本のインターネットやSNSで激しい論争が発生しており、本作品は題材の選定そのものではなく、それを扱った原作者の態度と再現方法によって深刻な問題作へと転落した。

 

作品を読むだけでなく、作者である亜月ねねの過去インタビューやエッセイ漫画も読んだ上で的確な論評を書いているのがすごい。

 

また、以下のnoteでも韓国語で『みいちゃんと山田さん』の長文による批評が投稿されている。記事は、韓国の人気ドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』と比較するという珍しいレビューになっているので紹介する。

 

【漫画レビュー】『みいと山田(みいちゃんと山田さん、みいヤマ)』における障害描写への問題提起 —— リバース『ウヨンウ』?|sechskatze
https://note.com/sechskatze_note/n/n5ccf4b38dbea

こちらもAIで翻訳して読んだ。一部抜粋。

 (『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』は)サヴァン症候群の特性を天才性や特別な才能のように描いたことで、放送当時に韓国国内の精神健康医学科の専門家、障害者関連団体、障害者の保護者や当事者から批判を受けました。これは韓国社会もまた発達障害に対する認識が低く、当事者との接点が少ないため、大衆がドラマの中の描写をフィクションとして見抜くだけの知識を持たないまま現実と混同しかねないという懸念からでした。その結果、「一部の健常者が現実の発達障害者をドラマの中のイメージに合わせて接したり、歪んだ期待や偏見を持つ危険性」が指摘されたのです。

批判が起きていたとは知らなかった。

 みいは現実の知的障害の特性を忠実に再現したというより、健常者であったとしても精神疾患やトラウマによる異常行動、社会不適応を起こさざるを得ない極端な環境で育った人物に近いです。それにもかかわらず、作品はみいの問題行動や感情的・衝動的な性格が本来の性質なのか、知的障害による限界なのか、あるいは暴力的・放置的な環境に晒され続けた結果なのかを十分に区別して描いていません。みいの奇行は連載が進むにつれて明確な文脈や補足説明のないままエスカレートしていきます。

これは、ナムウィキの総評でも指摘されていたこと。

 結果として読者が「知的障害者だからあのような行動をとるのだ」と受け取りやすい構造を作ってしまっています。

 実際に作品が社会現象級に流行したことで、韓国で「ウ・ヨンウ」が発達障害者や社会性に欠ける人を揶揄する蔑称として使われたのと同様に、日本でも「みい」が蔑称として使われる現象が起きています。さらに一部では、みいを嫌悪するにとどまらず、みいや作中の障害者キャラクターを現実の障害者と同一視し、彼らに対する露骨なヘイトスピーチを行ったり、植松聖(相模原障害者施設殺傷事件の犯人)を擁護して障害者の生存権そのものを否定するような過激な暴言まで現れる事態となっています。

 最後に「この記事を書いた理由は、道徳や倫理を名目に検閲を正当化するためではありません」とした上で、表現の自由は無責任を意味するものではなく、自由な表現が現実な繊細な事柄をどう消費され現実を歪め得るのか、という創作倫理の責任がある、と結ぶ。

 

 双方のレビューとも、日本の漫画を熟読した上で丁寧に論評できているのがすごい。

 

 ここで『みいちゃんと山田さん』の歴史を振り返ると、もともとは2021年3月に「ダイアナ」と名乗る夜職(風俗嬢やキャバクラ嬢等)の漫画を投稿するTwitterアカウントで発表された「幸福のために最低限必要なもの」と題した4ページのショート漫画が出発点である。

 

 当時、児童精神科医が書いた書籍「ケーキが切れない非行少年たち」が注目を集めていたので、それに乗っかって作られたネタかと思う。(実際、後に亜月ねねアカウントが「ケーキが切れないみいちゃん」ネタを投稿している)

 

 「ダイアナ」アカウントで発表されたショート漫画は、2023年3月に彩図社から出版された単行本『夜のことばたち』にまとめられ、 「幸福のために最低限必要なもの」も、ここに収録された。

 

 この短編の評判が良かったためか、その後に「みいちゃん」を主役とした作品『みいちゃんと山田さん: みいちゃんが死ぬまでの12ヶ月の話』が作られることになった(担当編集は彩図社の草下シンヤ氏)。その1話が2023年8月9日に「ダイアナ」アカウントにアップされ、twitter連載が始まった。この連載は、2023年12月に「11ヶ月目」をアップした後、最終話目前に休止になる。紙書籍化はされず、Kindleインディーズで無料作品として全4巻として電子書籍化された。この時の著者名は「ダイアナ」だった。

 

 その後、「亜月ねね」アカウントが「ダイアナ」から独立すると宣言をして、商業漫画家として準備に入り、2024年9月8日に、マガポケで「みいちゃんと山田さん」の連載が始まる(担当編集は月間少年シリウス編集部)。

 

 マガポケ版は、以前からのファンも引き継いで、アプリ内人気ランキングで常に1位を取れるほどの人気漫画になり、2026年7月に「TVアニメ化」が発表される。

 

 

 「ダイアナ」アカウントは、夜職のスカウト目的で作られたものだと見られている。夜職あるあるやエッセイ風スカッと漫画にまぎれて、露骨な「夜職は儲かる」をアピールする漫画が投稿されているからだ。その手法は以下の2021年の記事に詳しい。

 

若くて無知な女性を夜の世界にハメ込むダイアナ@012_diana_(亜月ねね@azuki_nene)のtwitter漫画が鬼畜で面白い件 | 雑記とか 色々ブログ
https://miminpoipoi.com/archives/1198

 

 この記事によれば、「ダイアナ」は亜月ねね卒業前から複数人体制で、夜職エッセイ風漫画を描いていたようだ。(当時、この手の「夜職で稼いで整形して人生成功」みたいなエッセイ風漫画投稿アカウントは量産されていた。)

 

 

 今の「みいちゃんと山田さん」に関する議論について、支持派と否定派の間で何か話が噛み合っていない感じがする。

 これは、「幸福のために最低限必要なもの」とダイアナ版「みいちゃんと山田さん」の続きとしてマガポケ版を読んでいる人と、マガポケ版だけを読んで楽しんでいる人とのギャップだと思う。

 ダイアナ版は、実録エッセイ風漫画としてリアル風に描かれた。みいちゃんにはモデルになった夜職の子がいると作者自身も答えていた。だから境界知能の生きづらさを描く社会派漫画としても注目を集めた。

 一方、マガポケ版のみいちゃんは漫画キャラクターとして過度にデフォルメされており、そこにはエッセイ風漫画にあったようなリアリティは薄くなった。それは回を重ねるほど増していき、マガポケ版から入った人はみいちゃんをただのトンデモな漫画キャラとして見るだけである。

 ヤンマガの編集氏は、「みいちゃんがイジメられるのを見るのが好き。もっといじめられてほしい」などと感想を述べていた。これは、ネットミームでいわゆる「ゆ虐(ゆっくり虐待)」系作品として楽しむ読者層がいることを示す。ゆ虐とはかわいいキャラクターが虐待されることを楽しむネットミームである。虐待理由はどうでもいい。ただ虐待内容は酷いほどいい、というフェチを指す。

 これも、マガポケ版のみいちゃんが、かわいいデフォルメキャラクターになってるからこそ言えることだ。

 

週刊文春の佐藤二朗「ハラスメント」記事に何が書かれていたか~読まずに憶測で語り事実とは異なる“怒りの物語”だけが拡散するネット

 無料で読めない記事を見出しだけで判断して憶測だけ拡散させて元記事にヘイトを向けさせる手法が、今のSNSで跋扈している気がする。

 

 新聞社や通信社といったマスコミサイトや、週刊誌サイトは、有料サブスク登録をしないと、満足に記事内容を把握できなくなっている。

 新聞や週刊誌が有料なのは大昔からだが、SMAP解散を報じた初代文春砲の頃は、SNSには誌面や紙面のスクショ画像が日常的にアップされていたので、それらがまとめられ、「買わない人」でも記事に何が書かれているか、正確に知ることができていた。

 その後、著作権意識が急速に高まり、厳しい処罰も進むようになり、有料記事の内容をアップする人はほとんどいなくなった。(当たり前だが、引用や要約という形でなら、有料記事の内容を伝えることはできる)。

 結果、有料記事の正確な内容は拡散されることがなくなり、皮肉にもネット上でマスコミや週刊誌といった「オールドメディア」の影響力は非常に限定的になった。

 それでも、歴史のあるマスコミや週刊誌の取材記事にはネットメディアが一朝一夕でたどり着けない信頼性がある。

 その信頼性をも潰そうと、SNSでは「見出しだけを材料にした憶測の拡散」が常態化している。 本文を読めないからこそ、誰かが勝手に内容を憶測して作った“怒りの要約”が事実として流通し、 本来の取材記事が持つ重みや文脈は、届かなくなってしまった。

 読んでいない人ほど強い断定をし、 読んでいない人ほど攻撃的な言葉を使う。 その結果、有料記事は「読まれないまま批判される」という奇妙な状況に置かれ、 オールドメディアの信頼性は、内容ではなく“憶測の空気”によって毀損されていく。

 

 週刊誌についていえば、もともとは新聞に対する「ニューメディア」という立ち位置で、今のネットメディアと立場は変わらなかった。

 週刊誌記事は、取材は尽くすが、取材で集めた材料の組み立て方に特徴があり、話を盛って下世話なナラティブに仕立て上げて読者の怒りを誘発し、新聞という巨大マスコミの信頼性を毀損する空気を作り出し、雑誌を買わせるのが週刊誌であった。だから見出しで威勢のいいこと書かれていても、記事を全文読むと、「はっきりしないなぁ」という内容が多い。

 とはいえ、10年ほど前に「文春砲」と呼ばれたいくつかの注目スクープ記事を出して以降、週刊誌もSNSでは良くも悪くも権威化されていき、それとともに、猛烈な嫌悪感を表明するネットユーザーが増えていった。

 

 さて、その週刊文春による佐藤二朗の記事についてである。

 ネット上では、見出しと本文の冒頭数行部分しか読めない。普通の平均的日本人なら、全文読めないなら何とも言えない、となるが、読まずに憶測だけで語るSNSユーザーは「佐藤二朗はセクハラをした」「橋本愛は顔を触られただけでセクハラだと訴えた」などと文春には書かれていない情報を投稿し、間違った情報で議論し、間違いを拡散をさせ続けている。

 これで困るのは誰か。佐藤二朗も困るし、橋本愛も困る。しかし一番困るのは週刊文春であるだろう。読まずに憶測した内容を投稿するSNSユーザーは、週刊文春に批判的な人が少なくない。文春の記事内容を投稿すれば著作権で問題が出てくるが、全く内容をかすらない憶測ならば、文春には訴えられない。佐藤や橋本には名誉毀損で訴える権利があるが、彼らと彼らのファンの怒りの矛先は、匿名のSNS投稿者ではなく、より”実体のある”週刊文春に向かう。結果として、文春は 「書いてもいない内容」で批判される」という最悪の状況 に置かれる。そして、この構造は文春を嫌う人々にとっては、まさに“してやったり”である。この構造がもっとも危険なのは「事実に基づく議論が成立しなくなる」点なのである。

 

 では、問題の記事内容はどうだったか。以下に週刊文春2026年7月9日号の該当記事から文春が盛ったとみられる部分を排除し、なるべく事実関係のみを整理して抜き出してみる。

 週刊文春2026年7月9日号の佐藤二朗記事(24p-27p)の基礎内容

  • ドラマは佐藤二朗主演が先に決まり、相手役を探してた
  • 橋本愛が、過去に性的トラウマがあるため演技に配慮してくれるなら、という条件を出し、Pが了承したので役を引き受けた。配慮とは、身体接触全てNGではなく、身体接触ある演技をしてほしいなら細かいことでも事前に伝えてほしいということ。
  • 配慮に関して、Pと佐藤のマネージャーで話し合い、マネージャーの提案で佐藤には伝えず自分の演技に注力してもらうことで決まった。橋本側は「佐藤に伝えるかはPに任せる」としていた(橋本側としては、監督や演出が配慮を理解し現場をリードしてくれるなら他の役者が知らなくてもいいという判断だろう)
  • 撮影中に佐藤が橋本の顔を触るアドリブ演技を入れた。その演技自体は橋本愛本人がそこまで気にするものではなかったが、接触演技は打ち合わせるという話が機能していないのでは、と心配した橋本側事務所が、Pに改めて「佐藤さんにも配慮のこと伝えて」と申し入れをした
  • 配慮の話を聞いた佐藤は、橋本の楽屋を訪れ「演技に制限あるなら先に言うべきだ」という説教を始めた。橋本側は事前にPに配慮のことを伝えてたと説明すると、佐藤は帰っていったが、橋本はショックを受けた
  • その後、Pも同席の上で話し合いをし、「佐藤は橋本の楽屋に勝手にいかない」「肩と腕はアドリブで接触自由。それ以外も事前に打ち合わせればOK」という方針が決まった
  • 1話完成試写後に、佐藤が橋本の楽屋に入り、素晴らしかったと伝えたうえで「演技に制限あるなら俳優を続けるべきではない」という内容のことを一方的に伝えた。橋本は更なるショックを受け、事務所が局に改善を申し入れた。
  • フジテレビが外部弁護士に調査を依頼し、撮影現場では再発を防ぐために局幹部が現場を監視する事態となった。調査結果を元に、フジテレビは佐藤に注意をして同じことをしないように申し入れた。
  • 橋本愛は、ドラマの最後の撮影を休み、再撮することなく、そのままドラマ撮影は終了した。

 

 「ハラスメント」など、その言葉を見るだけで一方通行の反応になってしまうような余計な言葉を排除して事実を整理してみれば、今回のトラブルは、「佐藤二朗がいらんことを言ってしまった」という、比較的シンプルな構図に収まる。

 橋本愛の側は、身体接触そのものに注文をつけたわけではなく、事前に共有されていたはずの配慮が現場で機能していなかったことに申し入れをしていた。

 フジテレビが外部弁護士を入れて調査し、局幹部が現場を監視する体制になったという事実からも、問題は「セクハラの有無」ではなく、現場のコミュニケーション不全と、俳優同士の信頼関係の破綻にあったことが分かる。

 しかしSNSでは、このような複雑な文脈は一切共有されない。

  • 「佐藤二朗=セクハラ加害者」

  • 「橋本愛=顔を触られただけで騒いだ人」

  • 「フジテレビ=また放置」
  • 「文春=また嘘ばかり」

という、事実とは異なる“怒りの物語”だけが流通する。

 この物語は、誰かが意図的に作ったものというよりも、 「本文を読めない人たちが、見出しだけで怒りを補完する」というSNSの構造から自然発生する。

 そしてこの構造は、今回のような芸能ニュースだけでなく、 政治、社会問題、事件報道など、あらゆる領域で同じように発生する。

 

 今回の件について、佐藤の演劇論としては、役者の演技は本番環境で役者同士がぶつかりあって作るものだからと、アドリブを封じられるのは許せなかったのだろう。マネージャーもそんな佐藤の難しい信念を知ってたから最初に「配慮」について伝えることやめたのかもしれない。

 しかし今は事前に入念に演技プランを立ててから撮影に臨むという演劇論も主流なのではないか。相手の俳優活動を否定することは、個人的な意見にせよ、言わないほうが良かった。信頼関係ができていない撮影初期ならなおさら。

 この暴言は、フジテレビが調査して佐藤に注意するまでに至ったが、それで2人の和解とはならず、橋本は撮影を休んだままドラマがクランクアップとなり、関係はこじれたままとなったようだ。その結果、週刊誌にタレコミが入り、憶測ばかり拡散して2人が誹謗中傷の銃弾のターゲットにさせられてしまうのは本当に不幸だ。なんとかしてほしい。

佐藤二朗と中居正広とフジテレビと週刊文春記事

俳優の佐藤二朗が、自身が主演するフジテレビのドラマ「夫婦別姓刑事」の撮影中に、妻役で女優の橋本愛に「ハラスメント」を行っていた、と週刊文春が報じた。

週刊文春の記事を読むと、橋本愛は男性との接触演技には配慮がほしいと伝えていたが、佐藤二朗はそれにキツイ言葉で苦言を直接言い放ってしまい橋本を傷つけたという。その報告を受けたフジのハラスメント部署は弁護士に調査を依頼し、弁護士は「ハラスメントに当たる」とフジに報告。フジテレビは報告に基づき、佐藤二朗に注意を行った。

と、このようにすでに終わった話のように読める。

ただ佐藤と橋本の和解はできていないようで、橋本は最後の撮影を休み、撮れないシーンが発生していたとも書かれている。夫婦のシーンだったのだろうか。佐藤もSNSの主張によれば「ハラスメント」自体を認めていない。

ともあれ、タレントのトラブルをフジが水面下で対応して、一応の決着をつけたところで、週刊誌が報じて、SNS等で大きく炎上するというのは、中居正広の性加害騒動と状況が似ているように感じる。

中居正広の性加害騒動は、中居正広がフジテレビ女性アナにプライベートで性加害を行い、事案を知ったフジ上層部が水面下で調査して、和解という一応の決着をつけたが、それを聞きつけた週刊誌が記事にして、社会的大問題になり、フジテレビの経営危機にまでなった。この騒動は、中居と女性アナの間ではすでに和解が成立しているので、当事者の2人についてはほぼ何も言及されることなく、フジテレビのコンプライアンスのみがメディアのターゲットになった。

佐藤二朗の「ハラスメント」騒動でも、フジテレビ叩きに繋がってしまうのだろうか。橋本愛が撮影に配慮を求めていたことを佐藤二朗に伝えられていなかったのは、ドラマの責任者の責任ではあるが、とはいえ、記事を読むと、伝えなかったのは佐藤のマネージャーとプロデューサーが話しあっての判断であり、それについて橋本側も了承していたという。佐藤の「ハラスメント」発言があった以後は、比較的早く弁護士に調査を開始させ、その間は撮影現場をフジ幹部が常時監視して再発防止を図っていたともいう。

記事ではフジテレビの落ち度があるとは読めなかった。

中居騒動では「フジ幹部は中居の性加害を分かっていたのに、新番組のMCに起用しようとしていた」ということが批判された。

佐藤騒動にも同じ批判が向けられるだろうか?「ハラスメントが分かっていたのにドラマを降板させずに撮影して最後まで放送した」ことに問題はあるだろうか。

フジテレビはハラスメントを放置していない。調査して監視して認定して該当タレントに注意を行った。降板はさせなかったが、今回認定した「ハラスメント」は、降板させるまでの悪い行為だっただろうか?そこまでの話とは思えない。当たり前だが罪には量刑がある。

文春では、発言騒動後、佐藤が当てつけのように撮影を休んだり橋本を無視したりしていた、とも書かれているが、フジの調査で認定された「ハラスメント」は発言だけ。フジ調査では、発言以外のそれら行為はいじめとは別文脈だったと判断したのだと読める。

中居騒動では、週刊文春は第二弾記事で「フジテレビの三悪人」と見出しをつけ、一気にフジテレビの企業批判に持っていった。

仮に今後、文春が中居騒動と同じようにフジテレビ叩きキャンペーンに繋げていくとするならば、これら「ハラスメント」認定受けていない行為について証人や証拠を集めて「フジテレビが無視した佐藤二朗のハラスメント」などと見出しをつけて続報を出していくのだろう。

 

立憲民主党の消滅と寺田学夫妻

<独自>無所属・寺田静参院議員が自民会派入り 与党、参院過半数まで5議席に迫る - 産経ニュース
https://www.sankei.com/article/20260115-UT2PM5AKCRKQLGGQP4NCWOHFVM/

  

夫の寺田学は、5年前に立憲民主党議員だった時に、性交同意年齢引き上げを議論する党内政策会議で議長になり、本多平直元議員を「50歳が14歳と同意性交ができなくなるのはおかしい」などという発言で処分した人だという印象。

本多の発言は常識的には受け入れがたいものであり、立憲もまとめ文書に取り入れず同意年齢を引き上げすることでまとまり、実際に時の政権下で性交同意年齢は16歳に引き上げられた。

しかし、党内会議で出た仮定の発言をもって党規違反として処分しようとしたのは(実際は処分前に離党辞職だったか)おかしいと思った。今まで罪でなかったことを罪とし、罰則を課すことを議論するならば、立法府の議員として慎重意見を出して当然ではないか。ましてやリベラル政党ならば、と。

案の定、この発言はSNSで単に発言が気持ち悪いという批判のみならず、おかしな意見だとしても処分まですることかと組織統治の面からも批判された。

この件の顛末は、立憲民主党包括政党の道を捨てて、それ以上党勢が拡大せずに衰退していくだけのきっかけとなったと考えている。

そのまま立憲民主党は他の加速主義的な野党に押されて存在感をアピールすることもできず、昨日には公明党と新党を作るという報道も出て、立憲民主党が潰える可能性も出てきた。

 

一方で寺田学は昨年議員を引退表明。辞めた後は、連合や社民・共産の支援で無所属当選してきた妻の政治活動を支えていく宣言をしていた。そして解散総選挙の報道が出た後、妻・寺田静の自民会派入りのニュースが流れた。産経新聞が報じた。

 

本多の「14歳おかしい」発言を最初に記事にしたのも産経新聞だった。

 

『あかつき戦闘隊』大懸賞問題と「ポケットの中の戦争」

「泣ける」の評価に「失敗だった」 戦後世代がガンダムで描いたもの [戦後80年 被爆80年]:朝日新聞
https://www.asahi.com/articles/ASTBZ0SWNTBZPITB00DM.html

物語に出てくる少年たちの軍人の階級章や薬莢集めの趣味の発想のもとに、高山文彦監督らスタッフの子供時代のミリタリーおもちゃブームがあったと。

監督の記憶に残るのは、1968年に起きた「あかつき戦闘隊大懸賞」問題だという。こんな社会騒動があったと初めて知った。

少年サンデー誌上で、当時連載中だった戦記漫画の「あかつき戦闘隊」にちなんだミリタリーグッズの読者懸賞企画が行われた。懸賞品には日本軍や米軍のグッズ、ナチスドイツの旗などがあった。児童文学作家らが「懸賞品にするな」と反対声明を出し小学館に抗議した。小学館は当初取り合わなかったが新聞やテレビが取り上げ大きな議論となると小学館側は賞品について今後配慮すると回答を出した。

こんな騒動らしい。検索してみると、当時小学館に抗議した児童文学作家側の文章が出てきて面白い。

『児童文学の旗』(古田足日 理論社 1970)  0 <『あかつき戦闘隊』大懸賞>問題
https://www.hico.jp/ronnbunn/furutataruhi/jidoubungakunohata/231-258.htm

(略-『あかつき戦闘隊』大懸賞の賞品をまず書きしるしていった・古田)四・五等は、ドイツ軍コレクションでナチスの軍旗・鉄十字章など、以下九等までの賞品はソ連軍ピストル、ドイツかアメリカの鉄カブトなどです。
 海兵生徒の正装に身をかためた少年の写真のほか、賞品の写真を見て、私たちは少年時代のことを思い出しました。私たちの少年時代、少年雑誌はこうした写真や絵でいっぱいでした。それが、知らず知らずのあいだに少年たちを軍国主義へと導いていく役割のひとつをはたしました。
 この懸賞のあおり文句には「どれも実物そっくりのモデル!! かっこいい!!」とあります。私たちの友人のなかには、海兵や予科練に行き、ついに帰ってこなかった人びとがいますが、この人びとを死にさそいこんだ入口のひとつは、その制服のかっこよさでもありました。私たちは海兵の正装に身を切られる痛みを感じます。ナチスの軍旗、鉄十字章に至っては、人類の悪夢の歴史の象徴です。
 これらを”かっこいい”といって、子どもに与えることは、ふたたび戦争へと進んで行くあやまりをおかすことになります。もしもこれを与えるなら、人類の痛苦の記念として与えるべきです。懸賞という特殊の価値のある賞品として与えるべきではありません。
 私たちのいうことを、考えすぎだ、おとなの感傷だという人もいるかもしれません。だが、教科書から太平洋戦争批判の文章が消えていく時代です。武器や、血に汚れたナチスの軍旗のモデルを堂どうと賞品に出すことは、子どもに侵略戦争を罪悪と感じさせない気持をうえつけていきます。こうした気分がひろがり、養われたとき、戦争の火はつきます。そのときになってあわてても、もぅおそいのです。
 少年誌がここまで来たことをみなさんにおしらせし、あわせて小学館及び賞品提供者の中田商店にこの懸賞の撤回を求めます。

国会図書館デジタルで「『あかつき戦闘隊』懸賞問題」などと検索しても、実に多くの文献が発掘できる。

検索結果 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?keyword=%E3%80%8E%E3%81%82%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%81%8D%E6%88%A6%E9%97%98%E9%9A%8A%E3%80%8F%E5%A4%A7%E6%87%B8%E8%B3%9E%E5%95%8F%E9%A1%8C&fullText=true

漫画史では、1960~70年代に起きた漫画に関わる事件だと、「ハレンチ学園」が問題視された悪書追放運動ばかり取り上げられるが、子供との関わりが問題視されたのは性的な漫画だけでなかったと。(「懸賞問題」はあくまで漫画ではなく雑誌編集・出版社との問題であるが。)

 

しかし冒頭の記事に戻ってみると、今の視点で当時の漫画批判運動を語る文章はだいたい、批判運動していた側が「子供をなめてる」「表現の自由を脅かしてた」など批判されるのが常なのだが、そうではない語り口が新鮮だった。別に運動を肯定している語り口でもないのだけど、当時の社会情勢や時代性も理解した上でのニュートラルな語り口というか。

そうした感性が「0080 ポケットの中の戦争」の物語を作り上げたんだろう。

読売・毎日の「石破退陣」誤報問題は、間違えなかった朝日・共同など他メディアに注目すべき

毎日新聞が7月23日午前11時に号砲を鳴らした石破退陣報道。

 

石破首相、退陣へ 8月末までに表明 参院選総括踏まえ | 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20250723/k00/00m/010/057000c

 

「スクープ」とタグがつけられて電子版にアップロードされ、その日の夕刊では一面トップ記事になった。

 

続けて、読売新聞が12時50分に月内に石破首相が退陣表明するという記事を出し、街頭で号外まで配布した。

 

石破首相退陣へ、月内にも表明する方向で調整…関税協議の妥結踏まえ意向固める : 読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20250723-OYT1T50070/

 

毎日も読売も「石破首相が退陣する意向を周辺に伝えた」という内容は同じだが、細部に違いがあり、読売が23日の記事で「月内(7月内)にも退陣表明する」と即時退陣すると記事にし、その緊急性から号外まで配ったのに対して、毎日は「8月末までに退陣表明する」と期間に猶予があり、更には「時期は前後する可能性はある」とまで注釈をつけて断定を避けている。

 

毎日新聞は、23日夜に「なぜ石破首相は参院選後に退陣意向を固めていたのに続投意向を表明したのか」という、石破首相が退陣意向を否定することを予期した先回り記事まで発表していた。

 

「死に体で交渉できぬ」 石破政権が“退陣シナリオ”秘した事情 | 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20250723/k00/00m/010/260000c

 

アメリカとの関税交渉やTICADなど首脳外交の日程が詰まっている間は退陣発表しない、しかし石破首相は退陣を固めている、という内容である。

 

毎日新聞は、当初の記事から見出しだけは仰々しかったが、記事の中身は言い訳だらけで曖昧な記述が多く、通常の政局読み物記事と変わらない。「7月末まで」と期限を区切って退陣すると報じた読売新聞とは違いがあった。

 

双方の記事とも、石破首相が退陣の意向を否定した時点で誤報となり、9月に入り読売・毎日ともに釈明記事を発表した。

 

まずは読売新聞が9月3日に検証記事を発表した。

 

首相「辞める」明言、読売「退陣」報道を検証…石破氏が翻意の可能性 : 読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20250902-OYT1T50163/

進退、揺れ動く首相…石破氏が虚偽説明 読売「退陣」報道を検証 : 読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20250902-OYT1T50187/

 

内容は、「石破首相が『周辺に』『関税合意をしたら辞める』と語っていたことは事実。だから関税合意後に号外を出した。それを否定した石破首相が虚偽発言をしている」というものだった。記者が自ら聞いた事実ではなく、石破首相の「周辺」から聞き取ったことを「事実」と主張している。

 

 「周辺」からの聞き取り内容を報道するのは政治報道の定番だから否定はしない。しかし、それを「スクープ」や「号外」にするのは間違い。そういう会話が仮にあったとして、「周辺」との会話の文脈や雰囲気が全く分からなければ、発言の真意も分からないではないか。

 

読売新聞が石破首相本人に取材したのは記事発表の直前の、この部分だけである。

本紙は、首相に心境の変化がないかを改めて取材したところ、首相は「今日は発表しない」としたものの、退陣の意向については「変わりはない」との認識を示した。

 

この石破首相の回答部分のカギカッコに「退陣」の文字は入っていない。この発言内容が「退陣」のことを指すとは思えない。アンジャッシュのコントのように、質問する記者と回答する首相との間で認識の齟齬が起きたと見られるのが普通ではないか。しかし、読売新聞は、首相本人が答えたから「退陣意向」と記事にしたと責任転嫁をする。

 

読売新聞の検証記事では、なぜ「7月末までに退陣表明」という期限を断定できたかは全く書かれていない。「毎日新聞が『退陣へ』記事を出したので、我が社も号外を出した」と書かれているが、毎日新聞は「8月末までに表明」という記事である。なぜ読売は「7月末」なのか。誰が「7月末」と判断したのか。検証がない。

 

毎日新聞も、石破首相が党内の辞任圧力に耐えきれずに辞任した日の9月7日夜に、釈明記事を発表した。

 

「首相、退陣へ」報道 説明します | 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20250907/k00/00m/010/286000c

「8月末まで」という期間の長さについては、政権幹部から首相がすぐに退陣表明すると8月が政治空白になるので、すぐに表明しないという話を聞いたからだと言う。しかし、「すぐに退陣」でないならば「退陣へ」なんて見出しをつける必要はなかった。

 

「首相本人が『政治空白』を懸念して報道を否定することは想定していた。しかし、記事の中で説明しておらず、読者を混乱させる結果となってしまった」とも釈明した。

 

毎日新聞は当初から反論された場合の言い訳をいくつも記事に盛り込んでいた。だから退陣発表は「8月末まで」という長いスパンを取り、「前後する可能性はある」という、どこぞの予言本のような曖昧な書き方をしていた。問題があったのは見出しや「スクープ」のタグをつけ方である。

 

読売新聞のほうのはてなブックマークのコメントにこういうものがあった。

gryphon 「石破氏はX日○○と言った(だがそうしなかった)」は捏造でなきゃ、取材のファクトだろうから誤報と言われたらこれ出す権利はある。で「そんな発言したなら仕方ない」か「それ込みで判断すべきだ」は「評価」部分

しかし釈明記事を読めば、取材のファクトは「石破氏はX日○○と言った」ではなく、「『周辺』は、石破氏がX日○○と言った、と言った」であることが分かる。そこは新聞読者は勘違いして読売の策に引っかかってはいけない。評価は「周辺」の確度。

 

読売新聞や毎日新聞誤報記事が出る前後、他のマスコミも四六時中「石破首相の辞任はいつになるか」という報道をし続けていた。しかし、他のマスコミからは誤報は出ていない。読売・毎日の誤報に後追いすることもしなかった。そこはもっと注目されるべきだと思う。

 

共同通信は、毎日新聞が「退陣へスクープ」した直後の正午前に、「首相、退陣不可避」という記事を発表した。

 

【速報】石破首相、退陣不可避な情勢|47NEWS(よんななニュース)
https://www.47news.jp/12904252.html

 

もろもろの取材で、石破首相の退陣が間違いないと記者は思ったのだろう。しかし「退陣へ」「退陣意向」などとは書いていない。

 

朝日新聞は、23日午後に「関税合意で退陣論、強まる」という記事を書いたが、「退陣へ」「退陣意向」などとは書いていない。

 

首相の退陣論、自民党内で強まる 続投理由にした関税交渉の合意で [石破政権][参院選参議院選挙)2025][自由民主党自民党)]:朝日新聞
https://www.asahi.com/articles/AST7R14YKT7RUTFK004M.html

 

ほかのマスコミも同じく。読売・毎日が「号外」した記事の翌日以降も、後追いで読売・毎日に同調して「退陣へ」「退陣以降」と書いたメディアはなかった。

 

7月28日、朝日新聞記者が記事の舞台裏を語り合うYouTubeチャンネルで、読売・毎日の「退陣へ」報道について話す動画が投稿された。

 

【石破首相進退】「退陣へ」報道と実態 「びっくりするくらい」続ける気満々【報談】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-_Ht0cKBCZQ

 

朝日新聞政治部記者の冨名腰隆氏は、読売・毎日の「号外」「スクープ」を読んで後追いで周辺取材を行ったが、石破首相の「退陣意向」はまったく確認できなかったと話す。首相周辺からは「やる気まんまん」という話しか確認できなかったので、「退陣へ」記事の後追いはしなかったという。

 

これが普通の政治部記者が記事を出す時のファクト確認なんだろう。朝日新聞だけでなく、他のマスメディアも同じ取材結果になったから後追い「退陣意向」記事は出さなかった。

 

動画で朝日記者が語っているが、首相が「辞めざるを得ない状況」だと報じるのと、首相が「自ら辞任する意向だ」と報じるのとでは全く違う裏取りが必要なのだ。

 

読売新聞と毎日新聞は、「周辺取材で石破首相がこんな『辞める』発言をしていたから誤報した」と釈明しているが、読売・毎日が聞き取った「辞める意向」発言を見比べると、似たような内容が少なくない。おそらく両社が取材した「周辺」は同じ人物が多いのでは?と考えるところがある。だとすれば、この「周辺」が読売・毎日記者だけに情報を流しているとは思えず、他のマスコミ記者も、同じ「周辺」が流した「辞める意向」情報を獲得しているはずである。

 

しかし、誤報したのは読売と毎日だけだった。読売と毎日が「これだから間違えた」といくら釈明しても、間違えなかったメディアが多数ある、というカウンターが出来てしまう。

(もちろん「間違えなかった人がいる」カウンターが使えるかどうかはケースバイケースだが)