「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 / 関口涼子 / 翻訳家、作家 | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/12340
この記事は「シャルリー・エブド」の風刺画について、読売新聞の翻訳紹介記事は読者の誤読を誘うものだ、と指摘するものだ。読売記者は風刺画のフランス語を誤訳していると言っている。
風刺画に書かれた「Tout est pardonné」の言葉を読売記事では「すべては許される」と翻訳している。
これを関口涼子さんは、
・読売新聞は「pardonné」を単なる「許可」の意味「Permis」と混同して訳している
・「Pardonné」は「過去に為された過ちを赦すことを意味」する宗教的な言葉だ。
・直訳すれば「すべてを赦した」にしなければならない
と間違いを指摘し、翻訳は、その国の文化的な側面を汲み取りながらしなければならないと主張する。
そこにこういう指摘が入る。
「許す」と「赦す」は同じ意味ですよ - 図書館発、キュレーション行き
http://yuki-chika.hatenadiary.jp/entry/2015/01/15/040433
和語に当てはめる漢字の使い分けなんて意味ないよ、というものである。それはそれで興味深いのだけど、関口さんの記事にぶつけてくる内容としては、どうも噛み合ってないようで何か気持ち悪さを感じる。
関口さんの記事では「許す」と「赦す」の漢字を使い分けする理由が記事中で丁寧に説明されている。日本語的に使い分けする規則はなくとも、記事中では使い分けされている理由はある。
yuki-chikaさんの記事中に「元の読売新聞の翻訳『すべては許される』でも、関口さんの指摘するフランス語の深いニュアンスは汲み取れるよ」とかいう指摘が入るならば、使い分けの規則なんてないという指摘をぶつける意味はわかるが、その点には踏み込んでいない。
もともと「許す」と書いたからといって、すべて「許可する」という意味で受け取る人はいない。「すべては許される」と書いてあれば「すべては許される」と認識するのであって、誰もが「すべては許可される」と脳内変換して解釈するわけでもない。「すべては許される」と翻訳されていても、関口さんのようにさ風刺画をまざまな解釈で読み解くことは可能であると思う。そもそも「すべては許される」の意味を「表現の自由はどんだけ相手を馬鹿にしても許される」と反射的に受け取った人たちは、「すべてを赦した」と翻訳されていたとしても、同じように「表現の自由は何やっても許される」と意味を受け取るのだ。どっちにしろ関口さんのような人が原文を引いて歴史や文化を紐解いた上で説明しなければいけない。
関口さんの記事では誤訳をしているメディアとしてAFP通信の名前も出てきたが、AFP通信はフランスの通信社である。翻訳者が日本人かフランス人か分からないが、AFP含め多くのメディアの翻訳者が「すべては許される」としているということは、当のフランス人すらも関口さんみたいに深読みしてる人は少ないのではないのか。もしそうならば読売新聞等が「すべては許される」と文言を伝えたとしても特におかしくはない。
銃撃された仏紙、最新号表紙にムハンマド風刺画 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
http://www.afpbb.com/articles/-/3036300