『ぼくは麻理のなか』と『君の名は。』 新海誠が『ぼくは麻理のなか』を作ったら

押見修造『ぼくは麻理のなか』が完結した。
麻里に宿った小森人格の真相が明らかに。
多重人格エンド。
神秘性のある入れ替わりでも憑依でも人格転写でもなく、一番現実的なオチ。
それを見事な筆力で描き切った。
読者として満足。


ただ、2chのスレなんかを読むと不平不満も数多く見られる。
いや、ぼく自信は満足しているんだけど、そういう不満の気持ちも理解できる。
なぜ不満が出たか書いてみる。いや、ぼくは満足してるんだけどね。


不満が出るのは、『ぼくは麻理のなか』という漫画は結局、リアル小森はこれっぽっちも重要人物じゃなかったからってこと。
主要キャラクターのうち、唯一の男性である小森。
読者の多くは小森(正確には麻里の中の小森)に感情移入して読み進めるはずだ。
しかし、麻里の中の小森は虚像だった。


麻里−小森−依の物語と思っていたものが、麻里−依の物語と分かった。
読者が自分を重ねて読み進めていた小森は排除された。
ここでリアル小森が、麻里の人格の謎の解決に主体的に関わってくるのなら、読者はリアル小森を感情移入先として読み進められるが、リアル小森は終始これらメインストーリーの枠の蚊帳の外に置かれていた。
どこまでも麻里と依にクローズアップした百合物語だった。


だから不満を述べる人の気持ちも分かる。ぼくは満足してるけど。


ところで最近観たばかりのせいか、新海誠君の名は。』と『ぼくは麻理のなか』の家族の描写が被っていると思った。
君の名は。』では、父親と娘が不仲。最後、彗星衝突から住民を避難させるために父親に助けを求めにいく娘。決意して面会するが、そこで時間が飛んで、住民が全員助かったという場面に移る。2人は和解できたということだ。父親と娘がどういう話し合いをし、和解したのかは具体的に描かない。
『ぼくは麻理のなか』では、母親と娘が不仲。最後、娘は精神的に急成長を遂げる。エピローグでは、母親が過去に破り捨てた娘の写真が修復されて、母も含めた家族が団欒するリビングに飾られている。2人が和解できたということだ。母親と娘が家族でどういう話し合いをし、和解したのかは具体的に描かない。


こういう場面だけでなく、新海誠作品と押見修造作品って、アニメと漫画でジャンルが違いながらも、思春期の少年少女にクローズアップし続ける作風や、絵柄からにじみ出る雰囲気が似てるなぁと感じる。
しかし新海誠はあくまで男女の恋愛描写に定評のあるクリエイター。趣味嗜好は全然異なっていそうだ。


仮に新海誠が『ぼくは麻理のなか』の作者だったなら、あくまで麻里と小森の話としてまとめあげただろう。依が任されていた麻里の中の小森人格の謎を追うサポートの役は全てリアル小森に代わり、最後の麻里の人格統合もリアル小森の呼びかけで成功。最初から最後まで麻里と小森の恋愛を描く物語になったはず。依はあくまで麻里人格の信奉者で2人の行動を邪魔する役目として。新海誠なら「麻里−麻里の中の小森−依」ではなく「麻里−麻里の中の小森−リアル小森」と描くと。


ラストはこうだ。
リアル小森とともに謎を解き明かす最後のピースを探し当てたところで倒れる麻里。「帰ってこい」と呼びかけるリアル小森。麻里の精神世界で、麻里のなかの小森人格が「戻ろうよ。麻里さんには外の世界で待ってくれてる本物がいるだろ」と話し、麻里人格は表に復活。麻里とリアル小森、2人で涙目になって抱き合う。「おかえり」「ただいま」「君の名は」「麻里」
ジャジャジャーン!


一般受けはこっちのほうが良さそう。観てみたい。いや、ぼくは現状に満足してるけど。