神田うのの書き込みに思うこと ネットとデマ

芸能人の神田うの阪神大震災のとき仲間内で死亡者数が何人になるか賭けていた、という話がある。東日本大震災で再びその話題が沸騰し批判が集まり、神田うの自身がブログで否定した。ところが、その話題の元となった、神田うのが自ら「賭けをしていた」と語っている雑誌記事が出てきて、「神田うのは嘘をついたのか」と内容とは別のところで更に批判されることになっている。


ネット上で広まった書き込みをそのまま写す。

震災から1年くらい経った頃にやってた番組の中で
「頑張る人を応援しよう」みたいなコーナーがあってね、その中に
立ち直って行こうと頑張ってる商店主や開業間近(しかも1/17)の
診療所も壊滅してしまったけどやり直そうと頑張ってるお医者さんとかが
出てたのね。関西出身で実際に身内が被災してなくなったタレントも
ゲストで出ていて、心境を語っていたのに急に笑い出して
「死んだ人、6000人だっけ?私、友達数人とかけていたのぉ〜」
なんて言い出した。司会者がマジで驚いて「え、なんの話ししてるの?
今は震災の話しだよ!」ってたしなめたら「だから〜、震災の話しじゃん。
7000人死ぬ方にかけていたのに死ななくて、うの、負けちゃったんだよ。
診療所つぶれちゃったお医者さんよりも、うのの方が可哀相〜」
みたいな事言ってた。司会者も関西出身のタレントも無言だった。


神田うの優雅な奥様生活へ・・・片や
http://mimizun.com/2chlog/ms/natto.2ch.net/ms/kako/999/999699794.html
上のスレによると、元々は2ちゃんねるの2001年6月に書きこまれた文章である。前後の書き込みを見ると、当時から「賭け」の話は神田うのの悪評の一つとして有名であったことが分かる。またこのスレ内で既に「賭け」のソースとして、「過去のテレビ番組」とともに雑誌「UNO」が挙げられている。「昔テレビ番組でも見たし、自分の雑誌にも載ってたよ」というのが「賭けをやっていた」と主張する人の根拠だった。そこに「見た人」がテレビ内容が具体的な広めやすい文章を書き込みした結果、その後このコピペのみを根拠として「賭け」の話を広める人が出てくるようになった。


ネットの中で知らない人同士のコミュニケーションではディベートバトルに陥りがちで、ギャラリーもバトルを求める傾向が多い。内容はどうでもいいけど勝敗を気にする、白黒つけたがる、主張の断定を求める。コピペを読んで「神田うのは酷い奴だ」と思い彼女の人気を落とそうとコピペを広げるネット国士。神田うの自身がブログで否定したことで「コピペは捏造だった」と思い、デマと闘おうと頑張るネット警備員。コピペを読んだときは「神田うのは酷い奴だ」と思い、神田うのが否定したら「コピペを書いた奴は酷い奴だ」と思うギャラリー。



有名人がネットで意見表明するようになり、数あるネットの噂を「本人が否定しているから」という根拠であっさりとデマ認定する傾向が出てきて、その単純さに「えーっ!?」となる。神田うのの話がいい例となった。デマ・コピペ検証が活発になるのはいいが、他のネットのコピペでも単純に「コピペだから」とデマ認定する正義漢あふれる人がいて、なんでそんなに言い切れるの?と思う。どのコピペも元々は一人の人間の書き込みなのに、コピペされてるからってデマと断定するのは論外。今回のような「テレビで昔〇〇見た」「雑誌で読んだ」系のネットの書き込みで「見た」「読んだ」という個人の記憶に基づく内容をやたら軽視してデマ認定するのはどうかと思う。


Twitterの「デマ」。2chを含め従来のコピペは、手軽といっても文章をコピーしてペーストするという2回の動作が必要だった。TwitterはRTボタンクリックするだけで更に簡単になったせいかコピペが余計に広まりやすくなった。RTは「知り合い」の発言でもあり、直接つながってる知り合いならばその人がマジで言ってるのか冗談を飛ばしてるのかが分かるものだが、RTで「しり合い」の「知り合い」の発言になってしまうと、とたんにその辺の書き込みの機微が分からなくなり、混乱した状態で広まってしまう。RTをする理由も「広めたい」「記録したい」とあるが、「広めたい」という理由にも「いい発言だから教えたい」「馬鹿な発言だから晒したい」と様々であって、「晒したい」と思ってRTしたものが「いい情報だから広めよう」と更にRTされデマになってしまったり。Twitterのデマ問題も本質は、週刊誌のうわさ話や2chのコピペとかわりない。Twitterだけ妙に特別視されて社会問題化されてるという感覚。Twitterブランドがそんなに大事な人がいるのか。