「原発は危険」といわずに再稼動できるか

玄海原発再稼動問題のニュース。
海江田大臣が、「電力会社などの安全対策は『適切に実施されている』との評価結果を発表」し、「電力不足に陥らないよう停止中の原発の再稼働を促」したのが6月18日。「実質上の『安全宣言』」と報じられた。
先日、菅総理からすべての原発にストレステストの実施をするように、と指示が出され、原発再稼動に待ったがかけられた、と報じられた。
電力会社の安全対策が適切に実施されてるから再稼動を認めた自治体が、ストレステストのことを聞いて、「国の安全宣言はうそだったのか」と再稼動を認めない方針を示した。
なんとなく鳩山政権時の米軍基地移転問題を思い出したが、よくよく考えるといろいろ違うかもしれない。



電力会社関係者や原子力研究者、原発推進派の人がよく言っていた台詞に、「原発の安全対策の強化や大規模避難訓練をしようとすると、反原発派の人が『今までは安全でないまま動かしてたのか!』『避難するような事故が起こるということか』と追求してくるので、対策・訓練ができなかった」というものがある。
今回それを思い出した。
「電力会社の安全対策のほかに国がストレステストで安全度チェックするよ〜」「ふざけんな、今まで安全じゃなかったのか」って。
国、政府は今後誰に代わろうとも、こういった逆のプレッシャーに負けずに、安全対策・大規模事故の訓練を積極的に進めてほしいところ。


再稼動したい側の人は、ストレステストをするからといって、すぐに再稼動許可の撤回なんてする必要ないのに、と思った。現状の安全対策は所管大臣によって認められているんだから、いったん稼動させて、これからやるストレステストで芳しくない結果がでたら即時停止、とかにすればよかったんではないのかな。



そもそも佐賀県知事玄海町長が「原発が安全なら稼動させる」「国が安全といえば稼動させる」とか言ってるのが変だ。天災、テロ、人為的ミスの連鎖、外国からの攻撃・・・あらゆることを想定したら「安全」なんていえない。
事故が起きる可能性を0にできないなら、「原発は危険」という前提にたってくれないと、とても再稼動なんてさせられない。住民にも危険なものと認識させたうえで、「原発は生活の上でも、経済的にも再稼動させることが必要」というべきだ。もちろん安全性に関して「最大限に努力する」ことと、万一原発災害が起きたときの避難と移住対策を必須として。



東野圭吾の小説に原発を扱った「天空の蜂」というのがある。その中で原発メーカーの技術者が原発の安全性について論じた部分がとても印象に残る。

「絶対に落ちない飛行機があるかい? ないよな。毎年、多くの死者が出ている。それに対して、おまえたちのできることは何だ? 落ちる確率を下げていくことだろう。だけどその確率をゼロにはできない。乗客はそれを承知で、その確率なら自分は大丈夫だろうと都合よく解釈して乗り込むわけだ。それと同じなんだ。俺たちにできることは、原発が大事故を起こす確率を下げることだけだ。そしてやっぱりゼロにはできない。あとはその確率を評価してもらうしかない」


「いっていることはわかるが、その説明で納得できる人間は少ないだろうな。飛行機は、乗りたくなければ乗らないで済む」


「問題はそこだ」
原発が大事故を起こしたら、関係のない人間も被害に遭う。いってみれば国全体が、原発という飛行機に乗っているようなものだ。搭乗券を買った覚えなんか、誰もないのにさ。だけどじつは、この飛行機を飛ばさないことだって不可能じゃないんだ。その意志さえあればな。ところがその意志が見えない。乗客たちの考えがわからないんだ。一部の反対派を除いてほとんどの人間は無言で座席に座っているだけだ。腰を浮かせようともしない。だから飛行機はやっぱり飛び続ける。そして飛ばす以上、俺たちにできることは、最善を尽くすことだけなんだ。たとえば、おまえはどうだい。日本がこれからも原子力に頼っていくことに賛成か。それとも反対か」


「難しい質問だな。ずるいといわれるかもしれないが、原発はやむをえないが、事故は決して起きないようにしてもらいたいというのが正直な気持ちだな」


「ずるいな。それは本当にずるい答えなんだよ。他に交通手段がないから飛行機に乗るが、絶対に事故を起こすなといっているようなものなんだ。乗る以上は覚悟を決めてもらいたい。もちろん事故防止のため、我々はできるかぎりのことをする。だけどそれは絶対じゃない。予期しないことが起きるのは、今度の事件が最後とはかぎらないんだ」


この技術者は国民の意思が見えないことを怒っている。原発に賛成にしろ反対にしろ一人一人が問題意識をもって意思を示せと。佐賀県知事玄海町長も「国の姿勢が見えない」と怒っているが、そのまえに自分のところで住民投票をやって住民の意思をしめしたらいかがか。