佐野研二郎氏の葬式に怒る人は「いじめられる方に原因がある」と考えてるいじめっ子

これ。

"佐野研二郎氏の葬儀" 目撃した漫画家が語る「ブラックジョークと感じた」
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/07/tamabi_n_12837348.html?utm_hp_ref=japan
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/07/tamabi_n_12837348.html

五輪エンブレム問題で「パクリ」の当事者となったデザイナー佐野研二郎氏。出身の多摩美術大学の文化祭で、佐野研二郎氏の社会的な死を葬儀として表現する学生によるアート・パフォーマンスが行われたという。


この件について、ネット上ではこのパフォーマンスに対し怒ってる人が多いのだが、どうも、その怒る方向性がズレている感じがする。
怒っている人たちは「不謹慎だ!」と怒るのだが、何が「不謹慎」だと思っているのか。誰の気持ちを代弁して「不謹慎」と叫んでいるのか。それが分からない。
佐野研二郎氏がかわいそう」とでも思っているのだろうか。だとしたらそれは違う。
この風刺作品は、目撃者の話からしても、「見当違いの批判で佐野研二郎氏を社会的に抹殺した世間(マスコミ・ネット)」への批判が含まれているものだろう*1。いわゆる「葬式ごっこ」のいじめとは根本から違う。当時から佐野研二郎氏を擁護するデザイナー関係者の声は多かったが、それらの声は世間の佐野批判にかき消された。今回の作品も、佐野研二郎氏をかばって、当時佐野氏をバッシングした世間の声を批判するものだ。
この作品に対して怒っている人たちが、「まだ佐野氏をかばうのか!パクリに反省はないのか!」と怒っているのならば理解できるが、「まだ佐野氏を叩くなんて不謹慎だ!」と怒っている人は何を考えているのか。佐野研二郎氏はコメントを出していないから、佐野氏の味方になって佐野氏の感情を代弁しているわけでもない。
怒っている人たちは、不快な感情が湧いたからこそ、葬式パフォーマンスを批判したくなった。しかし、不快になる理由が不快さを増幅させた。だから、ひと言「不謹慎」と指摘するしかなかった。佐野氏の葬式を見て、なぜ不快な感情が湧いたのか。
かつてエンブレム問題で叩いて佐野研二郎氏を「社会的に殺した」加害者である自覚が心のどこかにあったからだろう。世間の一員として、佐野研二郎氏をいじめて、追い詰めた。結果、佐野氏は「死んだ」。叩いていた人たちは「加害者」となった。「やりすぎた」「でも仕方ないじゃないか」「あいつが悪かったんだ」。そういう自覚があったからこそ、佐野研二郎氏の葬式を見て不快になり「不謹慎だ!」と叫ぶ。
「俺は殺してないぞ!」「俺は真っ当な批判しただけだ!」「ちょっとからかっただけじゃないか!」「死んだほうが悪い!」「死んだほうが悪いんだ!」
これは、いじめ問題のいじめられっ子といじめっ子の構図と同じじゃないか。
「いじめられる方にも原因」と書くと100%批判されるが、批判者は自分がいじめっ子側にいることに全く無頓着でもある。そんなことを思ったネットの出来事。

*1:葬式パフォーマンスで読まれた弔事が全文書き起こされた。多摩美術大学 佐野研二郎葬式パフォーマンス 弔辞全文(常見陽平) - 個人 - Yahoo!ニュースやはり、主旨は佐野氏批判ではなく、ヒステリックな佐野氏バッシングを引き起こした社会への批判となっている。