少年漫画の主人公の努力とは

「修行」のシーンに1話使えと。それだけでいい。1話使って「修行」を描いて分かりやすい「成果(新技とか肉体強化とか)」を得たらそこで一旦修行はおしまい!だらだらうじうじいつまでたっても読者に分かりやすい成果が示されず同じ場所で足踏みし続けさせるようなのは修行でも努力でもない。
「努力がない」とは毎日こつこつ修行をし続ける様子を漫画に描けという話ではない。天才型主人公が一目見た技をその場でコツを掴んで再現するとかで十分。ようは「その場」をちゃんと描けと。ワンピースのギアがいらいらするのは「その場」がどこにも描かれてないということ。マニアは一コマ二コマ取り上げて「ほらここに、ちゃんときっかけはある」とか言ってるが、そんな重要な技なら1話まるまる使って新技の解説と獲得するまでの流れを描けと。それが「努力を描く」ということ。
 相楽左之助が突然二重の極みを使い始めたら読者ポカーンでしょ。安慈との出会いから技の解説から修行方法まで描いてあるから納得する。だから少年が真似をして覚えようとする。どうやって強くなったか理解できる。最初から高スペックだった緋村剣心が使う技だって、龍槌閃、龍翔閃のようなどうやって真似すればいいのか分かりにくい最初から覚えていた技よりも、ちゃんと修行場面が描かれる九頭龍閃、天翔龍閃のほうが真似した子供は多かったはずだ。
 ようは読者が一緒に努力(修行)したくなるような漫画を描けと。読者が真似したくなる努力(修行)を描けと。そういう少年漫画がない(少ない)と言われているのではないか。結果最近の漫画・小説の主人公は「努力しない」という話になる。
 主人公は実は影で密かに勉強していたからこんなスゴイことできるんです!なんて回想シーンでいれられてもそんなのは少年漫画の「努力」には入らないのだ。少年が主人公と一緒に同じ時間で同じ「努力」ができるような漫画こそ「努力」のある少年漫画といえるのだ。