カウンターをどこまで気にするべきか、カウンターでどこまで追い詰めるべきか

京都新聞の気になる記事2本。


「デリヘルを呼ぶ」は芸術か 提案に賛否飛び交う : 京都新聞
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20160507000063

アートとして性産業従事者を呼ぼうとしたらネットで炎上。現代アート界隈は炎上恐れ萎縮していると。

匿名の攻撃、炎上の恐怖 「ヘイト」と法規制 : 京都新聞
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20160507000120

大学講義で在日朝鮮人問題を扱ったらネット右翼からヘイトスピーチ攻撃。大学で在日問題への扱いに萎縮してしまっている。



同じテーマの特集記事なのかと思ったら、特に関連したものではないみたい。
両方とも、ネットの批判・反論といったカウンター言説とどう向き合うか、表現の自由との兼ね合いも絡んだ記事。



何かを発信すれば、それに対して反論してくる人がいる。それが論理的だろうが感情的だろうが、否定的な反応は必ずくる。ネット時代、そうした言説がぞくぞくと公衆に発信され、カウンターとなって返ってくる。個人に返ってくるものなら、全く気にしないでいい。こっちも自由に表現してるのだから相手も自由にカウンターを仕掛ければいいのだ。本当に発信したいなら萎縮する必要はないし、今まで通りでいい。けれどもカウンターは個人に向かってくるとは限らず、広く周囲に拡散してしまう。それが悩ましい。



とすると「表現の自由」の問題はカウンターの作法にあるのか。単に批判・反論するのはいい。しかし、その批判・反論でもって相手をどこまで追い詰めるのか。「相手の謝罪」「相手の失職」「相手の自殺」……。こういった何かを期待して批判・反論してはいけない。