ポリコレと道徳

大津市の小学校で、いじめ問題の指導をする際に、加害者に「いじめ」という言葉を使わずに指導をしていたというニュースが報じられた。
報道では、「いじめ」という言葉を使わなかったことで、加害者が「いじめ」と認識せずに、指導を受けた後も「いじめ」行為を続けていたのだと指摘されている。
学校側は、報告された「いじめ」を全ていじめと認定してしまうと、学校の児童全員がいじめ加害者になってしまうからと、「いじめ」という言葉を使わなかった理由を話す。
 
「いじめ」の定義の問題が改めて問題となっている。
数年前に読んだ新聞記事で、大津市近辺の小学校が、「いじめ」の定義・条件をきちんと学校で定めることで、児童のいじめ問題が減った、意識が向上したというものがあったはずなのだが。(記事はスクラップしたと思ったが紛失)
この問題の小学校では、そういうことはなかったらしい。
 
しかし、今の扇情的ないじめ断罪報道を見ていると、確かに不用意に「いじめ」という言葉を使えないのは分かる。裁きを下す教師・学校の心労の負担は相当なものだろう。

 
「道徳」が教科化されて、教科書検定の問題が話題になった。
国の検定で郷土愛、愛国心が低いと指摘された道徳教科書は、「パン屋」を「和菓子屋」に変更して、合格した。
教科化され、成績がつけられることで、「正しい行為」と「間違った行為」が明確になることになる。
道徳の授業ではいじめ問題が大きく扱われるという。
さすれば、教師も道徳教科に照らし合わせて指導すればよろしいのではないか。
 
「あなたの行いは道徳教科的に間違っている」「道徳違反だ」
 
道徳の教科化は、正義で相手を殴れる棍棒を与えてくれたのではないか。教師は道徳棒で持って、教師としていじめっ子とされる児童を殴り倒せばよい。そこに、いじめ事件を裁く法律家である必要はない。
 
「修身」「道徳」とは右派による「ポリコレ」なのだな