対策しなければいけないのは「無敵の人」ではなく「無価値の人」

新幹線殺傷事件で、「無敵の人」という言葉がクローズアップされる。
「無敵の人」とは、社会の底辺まで落ちて失うもの(家族・財産)が何もなくなって犯罪をするのに何の抵抗感もない人たち、という意味である。
「犯罪をするのに抵抗感なく行える」というのが「無敵」なのだという。
この「無敵」という表現は、いかにも「持っている側」の見方である。失うものがある立場の人たちから見て、社会の底辺層が増えることが自分たちにとって脅威になるという警告から出てきた言葉である。
なので、「無敵の人」という言葉は、上から目線の言葉にすぎない。
自分はこの「無敵の人」という言葉は好きではない。
何より「無敵」であることなどありえないからだ。
何の立場も財産もない人間が「無敵」であるはずがない。
「持っている人」に敵うはずがない。
しょせん底辺に潜む弱者でしかない。
 
それは、新幹線殺傷事件の容疑者も同じである。無敵でも何でもない弱い男である。家族、祖父母、家もある。
そんな中、動機の一端を語るコメントが報じられている。
「自分は価値がない人間だ」
ネット民たちは容疑者を「無敵の人」だと見当違いの言葉で持ち上げるよりも、容疑者の言葉をそのまま使えばいいのだ。
歪んだ現代社会で生まれた大問題は「無価値の人」の出現だ。
 
進学、就職、リストラ、転職、ことあるごとに突きつけられて選別される人間の「価値」。
メディアを通じて、社会人に必要な「価値」、就活学生に必要な「価値」、家族に必要な「価値」が宣伝・拡散される。
能力重視、即戦力重視、コネクション重視。
その中で「無価値」を突きつけられる人間が一定数出てくる。
孤立して、評価の指標がメディアを通じたものしか無いような者は本当に悲惨な状態だ。
どこを向いても自分は「無価値」と突きつけられる。
 
容疑者は「無価値」のまま旅に出て、事件を起こした。
 
「無価値の人間」を救うには、「価値」ある支援をすることだ。