立憲民主党の小西議員が入手した放送法の解釈変更の経緯を記した総務省文書の問題をきっかけに、映画監督の是枝氏が7年前の高市答弁の際に書いた文章が改めて注目されている。
非常に丁寧に安倍以前は日本政府が放送法をどのように取り扱っていたかがまとめられているので、長いけど読み応えがある。
ざっとまとめると、現政権や与党自民党議員が使う「不偏不党」という言葉について、かつては「政府は不偏不党であって党派で放送局を指導しない」などと政府答弁がなされていたが、今は「放送局は不偏不党でなければならない」という答弁になってて、「不偏不党」の掛かる対象が逆転してるという「歴史修正」の指摘である。
さらに現在は「放送局の個別の番組も不偏不党でなければならない」という解釈変更がなされた(自民党的には「解釈の補充」)。
時の政権が放送局を縛る時に使われる「不偏不党」という言葉。
このまま行くと最後は「日本国民は不偏不党でなければならない」になりそう。
というか政府が縛ることなく、暗黙の了解ですでにそうなっているのでは?
居酒屋の会話のタブーは昔から「政治、宗教、野球」と決まってるし、ネットで政治運動が一時高まった時期もあったが、今のSNSでは政治的な話題をするアカウントは「活動家アカウント」として敬遠の対象。
一方で政府(自民党)省庁の広報アカウントは「ファン」で固められ喜ばれる。
個人の不偏不党化。
それは政権の固定化。
それは「安定」という言葉で肯定され、異論は消え去り、選挙の意味も見えなくなる。