小山田氏は「加害者」「観衆」「傍観者」「被害者」を行き来している立場のように見える

これ、この部分が一番気になった。

DOMMUNEに出演しなかった理由と、例の「いじめ語り」に対する簡単な見解 - 荻上式BLOG https://seijotcp.hatenablog.com/entry/2022/01/02/215656

厳密に触れておくとすれば、いじめの四層構造理論の分類でいえば、小山田氏は「傍観者」ではなく、「加害者」「観衆」「傍観者」を行き来している立場のように見えます(内心で「引いていた」からといって、「傍観者」になるというわけではありません。例えば内心では「引いていた」けれども、場の雰囲気に飲まれて「殴る」ということが可能なように)。また、本人コメントでも雑誌記事でも、細かな行為の全てについて、逐一確認できているわけでもありません。

中学の修学旅行の件を捉えれば、留年して激しい暴力による他人への加害行為も厭わない怖い年上同級生を間近にするというのは、それだけで被害者だと思う。親の喧嘩を子供に目撃させることや暴力シーンのある映像を子供に見せることが児童虐待になるように。被害について語る言葉を持っていなかった当時は薄笑いで「引いた」と言うしかなかったというだけで。

小山田氏は「加害者」「観衆」「傍観者」「被害者」を行き来している立場のように見える。だからROJに掲載された記事に戸惑いQJで多弁となった。

いじめの言語化の話。今は被害当事者による言語化は進むが、加害行為の当事者による言語化は進んでいない印象がある。QJ記事はそれをやろうとして失敗した。エンタメ雑誌の限界。当事者を匿名化した上で、学会論文等の冷静な場で発信するしかない。

「悪魔化」はグラデーションを排除して「加害」「被害」に二分し他方を攻撃する。「関与しない」ことだけでは「悪魔化」の波は収められない。難しいのは、どんなに条件を設定して、「こうこうこの面に関して限ればあなたに非がある」「こういう複数の条件下では許せない」と言っても、「あなたに非がある」「許せない」部分だけが見出しとなって強調し拡散されてしまう。それが「悪魔化」の「悪魔化」となることも少なくない。「悪魔化」は省略から起きる。「悪魔化」するために意識的に省略させようとする人もいる。「関与しない」ではなく「省略させないように発信し続ける」ことが重要だと思う。