少子化を止めるには2 うらやましい子無し、うらやましくない子持ち

酒井順子が新聞のコラムで「女が子供を作らない理由は『結婚がうらやましくないから』」と書いていた。その真意は、「今は結婚のハードルが高すぎるから、政府は単なる同居でも夫婦と同じ権利や社会保障を認めるフランス型パートナー制度を作れ」というよく聞く主張であったが、少子化の原因を『うらやましくないから』という言葉で説明するのは納得。

母となった女性がうらやましくないから、逆に言えば、産まない選択をして働く女性がうらやましいから、子供を持たない。別に男でも言える。父親となった男性がうらやましくない、子供を持たない選択をした男性がうらやましいから、子供を持てる立場であっても子供を持たない。

実際は、うらやましい、うらやましくないの感情の間を揺れ動くのが人生の歩みだが、出産適齢期の年齢時には「うらやましくない」の波のほうが強いのではないか。SNS社会の現代では「うらやましがられる」相手でないと結婚、妊娠、出産まで到達できない、と言い換えることもできる。

子供を持つことを「うらやましく」させられれば、出産する女性も増える。2人以上の子供を産んだ女性は年金、保険料無料、子供手当てとは別に月数十万円支給といったどっかの東欧のような政策が一番手っ取り早くはある。生まれた子供とは別に産む女性のための手当てを作らないと結局は産むことが「うらやましい」とはならない。子供が成長して独り立ちすれば、母親の手元には自由なお金が残るので何でもできるようになって「うらやましい」となる。

元首相秘書官は自分の意見として「(同性婚カップルが)隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ。」と言ったのか?

荒井勝喜首相秘書官が、オフレコ取材で岸田首相が同性婚を法制化すると「家族観や価値観、そして社会が変わってしまう」と答えた件について尋ねられた際に、「首相秘書官は全員反対している」「(同性婚カップルが)隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」と発言したと毎日新聞に報じられ、差別的だと大問題になり、役職を辞任した。

一方で、報道後の会見で荒井秘書官は発言を撤回したものの「見るのも嫌とは言っていない」と報道の一部を否定した。

荒井首相秘書官、性的少数者同性婚めぐり差別的発言 その後に釈明 [岸田政権]:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASR2403WGR23UTFK01W.html

オフレコ取材の場には複数のメディアの記者がいて(朝日新聞の記者は不在だったという)、オフレコであるものの、発言前後のやり取りは正確に再現が可能となっている。以下は共同通信が報じたやり取り。

記者 岸田文雄首相は国会で同性婚制度導入に関し「社会が変わっていく」と答弁した。

荒井氏 社会の在り方が変わる。でも反対している人は結構いる秘書官室は全員反対で、私の身の回りも反対だ。

記者 世論調査で若手の賛成が増えている。

荒井氏 何も影響が分かっていないからではないか。同性婚導入となると、社会のありようが変わってしまう。国を捨てる人、この国にはいたくないと言って反対する人は結構いる。

記者 悪影響は思いつかない。

荒井氏 隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ。人権は尊重するが、選択的夫婦別姓よりは同性婚の方がインパクトが大きい。

 

首相秘書官差別発言の”オフレコ破り”報道は「個人の内心をだまし討ちで暴露した」のか(江川紹子) - 個人 - Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20230208-00336121

自分はこのやり取りを読んで、荒井氏は自分の意見として「隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」と言ったのではない、と受け取った。

前段で、「同性婚が導入されると社会のありようが変わる。国を捨てる人、この国にいたくないと言って反対する人がいる」と話しており、その続きとして主語、述語を省略して喋っているのだと思う。

やり取りで省略されているであろう部分を補うと、こんな会話になる。

荒井氏 何も影響が分かっていないからではないか。同性婚導入となると、社会のありようが変わってしまう。国を捨てる人、この国にはいたくないと言って反対する人は結構いる

 

記者 悪影響は思いつかない。

 

荒井氏 (彼らは)隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ(と悪影響を考える)。人権は尊重するが、選択的夫婦別姓よりは同性婚の方がインパクトが大きい。

補強部分の「彼ら」とは「国を捨てる人」「この国にはいたくないと言って反対する人」を指す。続けて記者から「悪影響」を尋ねられたので、「反対する人は『見るのも嫌だ』と生理的嫌悪で強く反対するので、インパクトが大きい」と答えようとしたと。

荒井氏が、報道された会話のやり取りを概ね認めながらも「見るのも嫌とは言っていない」と釈明したこととも辻褄はあう。

一方で、この解釈が真実だとしても問題点は変わらない。結局は差別思想を持つ者が、秘書官か、それとも同性婚反対勢力かという違いがあるだけで、岸田政権が同性婚の法制化に否定的である理由が、「同性カップルを見るのも嫌だ」という生理的嫌悪に基づくものであると言っていることに変わりがないからだ。岸田政権は、「同性愛カップルを見るのも嫌だ」と言ってる人たちに忖度しているから同性婚法制化に後ろ向きなのかと。

記者が、荒井氏個人の意見としてではなく、オフレコを守って匿名で記事にしていたとしても、「岸田政権は差別的だ」と炎上することは防げなかっただろう。

 

オフレコ破りしての記事化について思うことはある。どうして発言が問題だと思ったのなら、最初の取材で「問題ではありませんか」とツッコまなかったのか。そこがマスメディアへの一番の不信である。その場で「『見るのも嫌だ』とは首相秘書官自身の意見ですか」などと厳しく追及するべきだ。日頃から政治部記者は取材対象の者の発言を全て容認しているから、今回みたいな差別的な発言が温存されてしまう。今回の毎日新聞のようにたまに不意打ちを仕掛けたとしても、褒めることではないと思う。

 

今はマスコミのみならずSNS発の失言叩きも多いが、筋違いな失言報道は変わってほしい。

 

西村眞悟の問題発言は「日本には韓国人の売春婦が大勢いるという趣旨の発言」ではなく、「大阪の韓国人に『お前慰安婦』と言え」という方 - rabbitbeatの日記 (hatenadiary.org)

自民党・大西英男議員への恣意的報道。「がん患者は働かなくていい」とは言っていない - rabbitbeatの日記 (hatenadiary.org)

全文読んでもやっぱり失言、森元総理のフィギュア発言 - rabbitbeatの日記 (hatenadiary.org)

メディアは「知恵を出さないやつは助けない」を暴言の代表例に使うな - rabbitbeatの日記

めざましテレビととくダネの鉢呂失言報道が酷い - rabbitbeatの日記 (hatenadiary.org)

少子化を止めるには

少子化の原因として、結婚したカップルは平均で1.5人くらい生んでいるのだから、少子化の原因は、適齢男女が結婚をしないこと、未婚化・晩婚化だ、という記事を読んだ。

結婚すればほとんどのカップルは子供を作るという。ではなぜ適齢期の男女は結婚をしないのか。

その謎に対して日本社会は、育児費用や教育費用がかかるから、という回答をピックアップした。そうして今、政府行政が少子化対策として更なる育児支援や教育無償化に取り組もうとしている。

しかし行政がいくら子育て費用を支援すると言っても、適齢男女が「じゃあ結婚しよう」とはならないだろう。結婚は相手を選ぶものだから。

収入、外見、遺伝子、等等、男女が結婚して子供をもうけるまでのハードルはいくらでもある。

結局は「いい年齢(とし)になるので誰でもいいから結婚しよう」「いい年齢になるので誰でもいいから子供を作ろう」と、「誰でもいいから」という社会にならないと少子化は止まらないだろう。

まあ前時代の結婚が「誰でもいいから」していたわけではないが、少なくとも今現在よりは条件が緩かったと思う。誰からも選ばれずに余った男女には別の男女を紹介されたり、結婚前提のお見合いが来た。とにかく単身の大人を作らせようとしない社会だった。

 

もう一つ考えたのは、そもそも今の適齢期男女は子供が好きではない。だから子供を作らない。理性的な大人は、子供を持ちたくないからカップルになっても結婚しない。

社会や生活環境が変わり、単身で生活に不自由することはなくなっている。大人向けの娯楽が山ほどあり、子供がいると、それに費用をかけることができなくなる。

未来の子供よりも自分の趣味・生活の充実を考えたい、という適齢期の男女が増えているということ。適齢期を過ぎて「子供っていいな。子供ほしい」と言っても無駄なわけで。

結果、子供を持つのは、子供にお金をかけながら自分とパートナーの趣味も満喫できるほどの高収入の持ち主か、子供をコンテンツにして稼ごうとするカップルばかりということになる。

実際はそんなのばかりではないが、SNSではそういう親のアカウントが目立ち、且つ、子供のために個人の娯楽が堪能できなくなってしまった親の怨嗟の声が激しいので、それに直接・間接的に触れてしまう適齢男女は結婚を避けるようになる。

いや、どんな状況でも普通に結婚する人は自然と結婚するのだが、自分で動かなきゃ結婚できない人が「今の生活壊したくない」と動かなくなることによって、結婚率が下がるということ。

自分の趣味より「子供好き」にするにはどうすればいいか。それこそ猫動画でペットブームになり猫を飼う人が増えてるように、子供をコンテンツにする動画番組を増やして赤ちゃんブームを作るとか。動画で親も稼げてウィンウィン。

批判を受けようと、こうやって適齢期の男女に打算的だとしても「子供好き」になってもらう施策が一番結婚に向かわせる効果があるのではないだろか。

 

必要な少子化対策とは、適齢期男女を子供好きにして誰でもいいからカップルになって子供を作るような社会にする施策。もちろん生まれた子供は親の責任だけでなく社会の責任として育てるような子ども手当や教育費支援は必須。

 

統一教会を増長させた裁判所

安倍晋三銃殺事件を機に統一教会の問題がクローズアップされている。

なぜ90年代前半まであれだけ問題だと騒がれた統一教会が今でも政治的に力を持ってるのか、なぜマスコミはいつの間にか報道しなくなったのか、について、「統一教会と行政」「統一教会と政党」の関係には注目が当たっているが、三権の残り1つ、「統一教会と裁判所」との関係も注目されるべきだ。

統一教会と裁判所」の焦点は、近年の統一教会が誰を何で訴えて裁判所はどんな判決を出してきたか、という話である。

2010年前後から、統一教会は反・統一教会の活動する人を訴えてきた。そして勝利してきた。身内を脱会させようと説得する家族に対して、統一教会は「拉致監禁」だと裁判で賠償を訴えて、それが認められている。原理研究会に所属する学生を脱会させようとした大学教員も訴えられて負けている。

統一教会と政治家」との関係以上に、「裁判所が統一教会の訴えを認めた判決」は「法的に統一教会が認められたから問題はないから統一教会と付き合ってもOK」というお墨付きを与える結果になっていったと思う。実際、統一教会は自らのサイトで判決を宣伝に使っている。

「有力政治家が隠れずに堂々と統一教会と付き合うようになった」「マスコミが統一教会の問題を報道しなくなった」「裁判所で統一教会の訴えが認められるようになった」これらの事象は、どれが最初かという話ではなく、お互いに影響を与え合いながら各事象はそれぞれ強化されていったんだろう。

映画『星の子』を見る

話題の小説を芦田愛菜主演で映画化した『星の子』。とにかくナベちゃんがかっこいい映画。

原作は新興宗教(カルト)信者2世の複雑な気持ちの揺れ動きを描いていると話題。

映画もその揺れ動きが芦田愛菜の演技で十分に伝わる。けれども、カルト2世の問題を描いた映画というか、子供が成長していくにつれ家庭と外の世界との違いに気づいて混乱するという誰にとっても普遍的な思春期の悩みを描いた映画と受け取った。

料理の味付けや日々の生活習慣から家族問題まで、世間一般の家庭と違って自分の家は特殊なんだと気付くことは誰にでもある。人に話して笑い話にできるようなものもあれば、人に言えない深刻なものもある。反発して家を出ていくこともあれば、受け入れて大人になることもある。

映画では主人公が悩むところは描かれるが受け入れるか受け入れないかの決断は最後まで描かれないままで終わる。

ラストシーン、中学卒業後の進路に悩む主人公をカルト信者の両親が星を見に誘う場面。

両親は流れ星を見るが主人公は見ていなかった。

両親は主人公に流れ星を見せようといつまでも粘る。

主人公は「見えた。見えたから帰ろう」と言うが両親には見えない。

両親は3人一緒に見るまで帰らないと言う。

 

両親の意図は何なのか、いろいろな推測がされている。

曰く「両親は主人公を親戚の家に預けて教団から離れた生活をさせてあげようと提案しようとしている」

曰く「親から離れそうな主人公を両親は逃すまいとしている」

どちらかと言えば後者なんだろうな。

現実的に見れば、ここで両親が主人公にしたかった話は、ずばり教団設立の高校への進学の提案だろう。

このラストシーンの前に、両親が謎の不在をする場面がある。映画の演出的には主人公の心の不安を劇的に描いたシーンなのだけど、キャラクターの動き的にはその時間の両親は教団の幹部と会っていた。この規模の教団なら教団設立の高校や高校に準ずる学校は持っていることだろう。そこへの入学を幹部は両親に提案したんだろう。場所によっては寮生活になって友達はもちろん両親とも離れるから重大な問題だ。

映画のテーマ的に、親から離れるか親を受け入れるか、があるけど、結末は親から離れるが親が信じた道に行く。

とにかくナベちゃんがかっこいい映画

 

創作物は間違いなく社会に影響を与える

この辺の話。

評論家が、お仕事アニメについて女性キャラの造形に多様性がないと批評して、クリエイターは索引の細かい部分が社会へ与える影響を考えたほうがいいと提言

ミステリ作家が、社会への影響なんて全く考えてないし、社会問題を是正するつもりもないし、そういうのは論文だ、と投稿

そして冒頭。

社会への影響を全く考えずに衝動で創作するのは創作者として普通だし、いくらでもやればいい。

しかし創作物が社会に影響を与えるという部分は創作者として素直に認めればいいのに、と思う。「創作物は社会に影響を与えますよ」って話を「私は影響を与えるつもりで創作してない」と言うってわざとズレた回答をしているのか。「読者を楽しませる」というのも「社会に影響を与える」行為なわけで。個人の集合が社会。

その上で、創作によって社会にプラスの影響だけでなくマイナスの影響を与えるかもしれない責任については「知らんがな」と答えればいい。「書きたいから書くのだ」と。

本はフィクションであっても「社会に影響」を与える。冒頭の「ミステリで毒物を学んだ」話。ミステリでも毒物や地名、歴史について読者に間違った情報を届けないように校閲が入ってるはず。出版後でも事実関係の間違いが見つかれば新たな刷りでは訂正される。だから「社会への影響」は間違いなく考慮に入れて出版されている。

 

・創作物は社会への影響を与える

・社会への影響を考えずに創作することは自由

・商業出版では社会への影響を考え校閲する

・商業でも同人でも表に出た創作物について社会への影響を批評されるのも当然

・創作も出版も批判・批評もそれぞれの道において突き進めばいい

 

 

小山田氏は「加害者」「観衆」「傍観者」「被害者」を行き来している立場のように見える

これ、この部分が一番気になった。

DOMMUNEに出演しなかった理由と、例の「いじめ語り」に対する簡単な見解 - 荻上式BLOG https://seijotcp.hatenablog.com/entry/2022/01/02/215656

厳密に触れておくとすれば、いじめの四層構造理論の分類でいえば、小山田氏は「傍観者」ではなく、「加害者」「観衆」「傍観者」を行き来している立場のように見えます(内心で「引いていた」からといって、「傍観者」になるというわけではありません。例えば内心では「引いていた」けれども、場の雰囲気に飲まれて「殴る」ということが可能なように)。また、本人コメントでも雑誌記事でも、細かな行為の全てについて、逐一確認できているわけでもありません。

中学の修学旅行の件を捉えれば、留年して激しい暴力による他人への加害行為も厭わない怖い年上同級生を間近にするというのは、それだけで被害者だと思う。親の喧嘩を子供に目撃させることや暴力シーンのある映像を子供に見せることが児童虐待になるように。被害について語る言葉を持っていなかった当時は薄笑いで「引いた」と言うしかなかったというだけで。

小山田氏は「加害者」「観衆」「傍観者」「被害者」を行き来している立場のように見える。だからROJに掲載された記事に戸惑いQJで多弁となった。

いじめの言語化の話。今は被害当事者による言語化は進むが、加害行為の当事者による言語化は進んでいない印象がある。QJ記事はそれをやろうとして失敗した。エンタメ雑誌の限界。当事者を匿名化した上で、学会論文等の冷静な場で発信するしかない。

「悪魔化」はグラデーションを排除して「加害」「被害」に二分し他方を攻撃する。「関与しない」ことだけでは「悪魔化」の波は収められない。難しいのは、どんなに条件を設定して、「こうこうこの面に関して限ればあなたに非がある」「こういう複数の条件下では許せない」と言っても、「あなたに非がある」「許せない」部分だけが見出しとなって強調し拡散されてしまう。それが「悪魔化」の「悪魔化」となることも少なくない。「悪魔化」は省略から起きる。「悪魔化」するために意識的に省略させようとする人もいる。「関与しない」ではなく「省略させないように発信し続ける」ことが重要だと思う。